道後文化探訪~伊予節めぐり~

伊予節とは、江戸末期から明治にかけて全国で大流行し、200年もの間唄い継がれてきた愛媛の代表的な座敷唄です。戦後の花柳界の衰退とともに、格調ある唄い方の難しさともあいまって、風化しつつある歌の歌詞には、12の松山の名所名物が登場します。名歌「伊予節」を通して市内をめぐることで、松山の宝である文化と歴史に触れることができるでしょう。

 

各地の紹介は山野芳幸氏著作『伊予節紀行は楽しいぞなもし』からご了承いただき引用しています。

1.三津の朝市

伊予節の名物名所の冒頭に「三津の朝市」が登場する。月の第2、4土曜日に三津ふ頭の松山市公設水産地方卸売市場で実施される。江戸時代からの名所であった朝市は、時代とともに近代化の波を受け、巨大な卸売水産市場として、三津ふ頭の隣の場所を新名所に、今朝も活気ある朝を迎えた。

 

当時の魚市場を物語る巨大丸屋根は、昭和29年6月、一本の柱のいたみから突然崩壊した。直径33メートルの丸屋根は朝市のシンボルであった。今に残るのはわずかの石段だけになった。


2.道後の湯

道後温泉本館の建造物は、平成6年12月に国の重要文化財に指定された。温泉建造物で「重要文化財」に指定されているのは平成28年5月時点で全国でもここだけとは、おどろきである。

神の湯階下大人410円で入湯ができ、しかも重要文化財も体験できるのだから、うれしい限りである。

少しぜいたくをしたければ、神の湯二階席大人840円で、入湯のほかに、浴衣も着ることができるし、砥部焼きの茶碗に輪島塗りの天目台でお茶と、お煎餅などの接待を受ける事ができる。

伝説と神話と歴史を誇る日本最古の道後温泉には、昔から皇室や多くの偉人、文人、政治家などもしばしば訪れている。

また巡礼の旅人も、道後温泉で心身をいやしているのである。

 

道後公園北西の山すそに、県指定文化財の石造湯釜がある。この湯釜を信仰の対象として湯釜薬師と地元の人は呼んでいる。そもそも温泉そのものが霊験あらたかで、人や鳥などの病気やけがをなおす薬効があるとされていた。

加えて、一遍上人が宝珠に「南無阿弥陀仏」の六文字を刻んだと伝えられている。

ところで、この湯釜は、奈良時代の天平勝宝年間(741~757年)に作られたもので、約1250年前のものである。


3.音に名高き五色素麵

いま、五色素麵を食べさせてくれる唯一の専門店が、マップの場所にある。麺房「五志喜(ごしき)」である。店の西側に「伊よの松山名物名所」の石碑が建立されているのですぐにわかる。

江戸時代、第三代松山城主、松平定行は、寛永12年(1635年)桑名から転封されてきた。そのとき随従してきた御用商人に長門屋市兵衛がいた。市兵衛は、桑名素麵の製法を松山に持ちこんだ。

当初は、松山素麵として売り出し大好評を博した。それから87年後の享保7年(1722年)に第八代長門屋市兵衛門のとき、「松山素麵」から「五色素麵」に変わった。まさに五色の糸そうめんに変身したのである。


4.十六日の初桜

松山には三大名桜がある。3月中旬に咲く十六日桜、つづいて3月下旬に咲く大宝寺の乳母桜、最後は4月上・中旬に咲く薄墨桜である。

その一つである十六日桜は、孝子桜とか辞世桜と呼ばれ、伊予節の名所の中に入っている。この伊予松山の名所を一目見ようと、昔から数多くの文人墨客が訪れている。

西行、一遍上人、小林一茶、西村清臣、冷泉為村、子規、霽月、極堂、碧梧桐、山頭火などなどである。

十六日桜は龍隠寺、吉平屋敷跡、天徳寺で見ることができる。(地図は天徳寺)


5.吉田さし桃

伊予節に「さし桃」という名物名所が挿入されている。

さし桃だけでは、その深い意味は分からない。まず場所はどこかということで、調べた結果、右の地図に、桃山幼稚園があり、その敷地の北西の小高い丘がさし桃のある場所であることが分かった。松山空港を目標にくれば、桃山幼稚園はすぐ分かる。開園時に園内の通行許可をもらえば、気持ち良く見学することができる。

3月下旬頃には、白、淡紅色、紅色の桃の花が、その美しさを競演して、それは見事なものである。

砂地からニョッキと桃の木が出ている。まさに挿し木から成長した桃のように見える。

昔からこのあたりは広大な砂丘地が広がっていた。都市化が進行し、いま唯一、ここだけが残っている貴重な砂丘である。


6.こかきつばた

国指定天然記念物、こかきつばた(エヒメアヤメ、誰故草(たれゆえそう))は北条下難波の腰折山山麓に自生している。

鎌大師堂の北側に「国指定天然記念物 エヒメアヤメ自生南現地」の石碑が建っている。

※以下は腰折山エヒメアヤメ登山口の看板より

エヒメアヤメは、明治32年(1899年)、牧野富太郎によって名づけられたが、古来よりタレユエソウの名で呼ばれている植物と同様であったことから、タレユエソウ(別名エヒメアヤメ)と改められた。しかし、大正14年(1925年)に国内六ヶ所の自生地が「エヒメアヤメ自生南限地帯」として指定されたことから、エヒメアヤメの名で呼ばれるようになった。また、伊予節のコカキツバタもエヒメアヤメの別名である。


7.高井の里のていれぎや

弘法大師が杖を地面に突きさし、そこからこんこんと水が噴き出し、そこに杖ノ淵ができ、流れでる水に沿って、ていれぎも自生し、それが伊予節にも唄われるようになったのである。「高井の里のていれぎや」の出発点は、すべて弘法大師である。

その弘法大師が、地面に杖を突いた場所がここだという碑文石が杖ノ淵公園内の泉に隣接した所にある。

 

 

 ていれぎは、昔からさしみのつまや吸い物に使われ珍重されていた。いまは市場にも出ないので、ていれぎを知る人も少ない。ていれぎを知る人は、あのピリッとした香草味の食感はたまらないという。

高井の里の小川にしか自生していなかったが、高度経済成長に伴い、家庭生活から排水される、いわゆる生活上のさまざまな種類の排水によって小川は汚染され、ていれぎは、次々と絶滅していった。現在は地元の人たちの強い危機感と「杖ノ淵ていれぎ保存観光協会」の方々が、杖ノ淵の泉から湧き出て流れる水路口から約30メートルにわたって、ていれぎを集中的に育て保存活動を展開した。おかげでいまは、右の写真のように青々と育っている。


8.紫井戸や片目鮒

紫井戸と片目鮒の井戸は別々の井戸であり、どうして伊予節にとり入れられたのであろうか。

どちらも木屋町4丁目の住宅街のなかにあり数百メートル離れているのみになっている。

紫井戸

※以下は松山市説明看板より

紫井戸は、昔から「松山の七不思議」に数えられ、「伊予節」に歌われて、人々に親しまれてきた井戸である。

この紫井戸という美称の由来は、二説あり、その一つは井戸の水が常に紫色にみえていたことによるという。

その二つは、水質のよい、この水を使って醤油をつくったので、醤油の呼び名の「むらさき」の井戸と呼ばれるようになったというのである。

 『松山有情』(佐々木忍)によると、「このあたりは水の豊富なところで、大正の末期ころまでは、地下水が自噴していた」とあり、この紫井戸もあふれるほどの水量があったと伝えられている。

すぐ近くの「片目鮒の井戸」と地下の水路でつながっていて、「片目の鮒」が泳いでいるのを見たという話も残っている。

日露戦争で松山の捕虜収容所にいたロシア人が、この井戸水を好んで飲んだともいわれる。

片目鮒

※以下は松山市説明看板より

この井戸は、近くの「紫井戸」と並んで、「松山の七不思議」や「伊予節」にとりいられており、昔から人々に親しまれている。

この井戸の名のおこりは、「片目の鮒」が棲みついていたことによるという。正岡子規も、この地を訪ねて

「鮒鱠(ふななます) 鮒に片目の由来あり」

という句を詠んでいる。

「片目鮒」の由来は、弘法大師の伝説である。

昔、四国巡礼の弘法大師がここ木屋町を通りかかると、とある家の前の井戸端で一人の老人が鮒を焼いていた。網の上ではねている鮒をあわれに思った弘法大師は、老人に話をして鮒を受け取った。大師は、すでに片目の焼けている鮒を呪文をとなえながら井戸に放した。鮒は元気をとりもどし泳ぎはじめた。この後、この井戸の鮒は、「片目の鮒」ばかりになったという。

本県出身の末広恭雄博士は『魚と伝説』の中で、「片目鮒」を取り上げ、チッソガスで目のところに気泡があらわれた病魚であろうと述べている。


9.薄墨桜

松山市内には桜の名花があり、それぞれ歴史上、文学上、有名である。その1つが伊台の西法寺の薄墨桜である。

 

西法寺山門入口の左に、柳原極堂の句碑がある。松山市教育委員会の高札による説明板によると、天武天皇の皇后が病気になり、西法寺の薬師如来にお祈りしたところ、全快された。そのお礼に薄墨の綸旨(朝廷からの文書)に桜をそえて下されたので薄墨桜という。


10.緋の蕪

緋のかぶは、文字通りあざやかな真っ赤な色をして、お正月前には、デパートやスーパーなどの食品売り場に華やかな彩りを添える。

「緋の蕪や 膳のまわりも 春景色 子規」

明治26年3月、子規27歳のとき、この句を詠んだ。

 

「緋の蕪」は、松山の地方の特産として、伊予節の後半に唄われている。いまでこそ松山地方の特産として知名度は高いが、実は県外からの輸入野菜である。

第二代の松山藩主になった蒲生忠知は寛永4年(1627年)出羽の国(山形県)から転封になった。蒲生忠知は、もともと近江国蒲生郡日野出身であった。ふるさとの野菜、「日野菜(蕪)」の種を取り寄せ、松山城の麓に植えさせた。収穫された日野蕪は、日野村で育ったものとまったく同じであった。蕪でありながら大根とよく似た姿をしていた。日野から来た人は、もちろん、地元の人々もこの日野蕪をこよなく愛した。城の北側一帯を日野町と定め、日野蕪がよく育った。現在、日野蕪は、かなり広範囲に植えられている。

ところで日野町は大火にあい、日野(火の)という文字をきらい、縁起をかつぎ、きれいな水がわきでていることから、清水町、水口町と町名を変えた。名前が変わっただけでなく、大根のような蕪が、品種改良により明治のはじめには、現在のような蕪になったといわれている。

だいだい酢を入れると真っ赤な緋色になる事が分かって、今日の緋の蕪漬の誕生となったのである。

11.伊予絣

伊予節は松山の名物名所を唄っているが、最後の節に、チョイト伊予絣と締めくくっている。

伊予絣は今出出身の鍵谷カナによって考案されたので、当初は今出の地名を用いて今出絣と呼ばれていた。

今出絣といわれる前には、伊予結城と称する綿織物があった。

当時の織機は、非能率的なもので、農家の女性は大変な労力を要し、苦労の連続であった。この非能率的な織機を改良し生産を上げたのが菊屋新助という人だった。

新助が発明した高機は、その後、鍵谷カナが創作した伊予絣の生産に使用されるようになった。これにより生産能率が格段の進歩をとげた伊予絣は、明治20年ころには伊予結城をしのいで、主流となり、明治37年、ついに年間生産量が146万反で日本一の座におどり出た。さらに大正末期には年間270万反(1反は大人のきもの1着分の分量)を生産し、戦前までほとんど全国一の実績があった。

その後、戦争の激化や化学せんいの台頭により、洋風化、作業衣等の変化などで、次第に伊予絣は衰退していった。現在では伊予かすり会館(右地図)で、保存、展示、生産を展開している。


伊予節スポット

ご紹介

『伊予節紀行は楽しいぞなもし』

著作:山野芳幸 氏

写真と絵と文でつづった「ええとこぞなもしシリーズ」の第9作目。

伊予節の歌詞に唄われた場所を、実際に歩き体験し、たくさんの絵と写真でわかりやすく楽しく書かれている。書籍にはより多くの伊予節関連箇所の紹介があり、道後・松山を散策しながらその奥深さを楽しむ事ができる。

ぜひこの本を片手に、伊予節紀行を楽しんでいただきたい。

 

お問い合わせは『道後遊行の会』までお寄せください。

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